中日翻译家协会《汉译和歌》每周一译(23)
自6月11日开始,中日翻译家协会毎周一译为《中日新报》各位热情的读者翻译《万葉集》中的一首已刋出二十三期。专栏开设以来,得到了中国和日本友人的广泛关注和大力支持,收到了一些专家学者的点评和他们自己的翻译作品,在此表示衷心的感谢。
为了更好地理解《万葉集》的汉译,中日翻译家协会金暁明会长在连载专栏中除了介绍毎期的作者和作品的背景,还将根据版面陆续为读者介绍万叶集的相关知识,并希望能够听到更多的读者声音。
万叶集的风土(11)
泊濑朝仓宫、飞鸟岡本宫的规模究竞有多大?从其占地面积比较狭窄这一点来推测,其规模都不太大。近江的大津宫似乎按照中国大陆的风格建造得雄伟高大。藤原宫以其宏伟壮丽而闻名。到了奈良时代,形成了以宫殿为中心的城市。皇宫周围的道路纵横交错,大路两旁植有林阴树木。皇族、大氏族的宅邸相继而建,一般庶民逐渐增加。以东大寺、西大寺为首的各大寺也逐步建成,神社也开始请了神。于是形成了作为首都的盛状。
后来却因迁都,而只留下了遗址,宫城的土地开始冷落莣凉,人们在赞颂新京的同时也留下了感叹故都凄凉的千古绝唱。人们在对古都明日香、藤原的追忆中,唤起了眷恋故乡的无限感慨,有的歌人竟然为了写作和歌重归故里。
万叶集中的许多作品就是在这样时代的风土上,将人们的心声表现在和歌作品之中,留下了许多坦诚的朴实自然令人感叹的不灭歌声。
本周是第二十三期,为各位读者翻译的是柿本人麻呂(见图)的作品。
和歌背景
218.219这两首是悼念从吉备国(冈山县)津宇郡(都窪郡)招入宫廷的宫女釆女、才人、巫女,见图)的短歌。宫女们是在天武或持统年间从各地的豪族中挑选的容姿端丽的年轻女子,入宫后待奉皇族。在作者人麻吕时期还是这种传统形态,但是到了律令制时代则出现了职业化的倾向。
根据短歌中“志賀津の子ら”、“凡津の子”,并且出现“罷り地の川瀬の道”来推断,宫女们无疑死于志贺(见图)的河川。这样就自然产生了出身于吉备的女性死于什么原因的疑问。
更不可思议的是,宫女侍奉在天皇身边,不允许与其他男性交往,可是这些宫女好像都有丈夫。在不得己的情况下,与朝廷的官人堕入爱河,被遣出宫廷送回故乡之时,不得不选择隐居而投河自尽。
在人麻吕出仕之前的天智时代,本来应该是祝福,但是从万叶集218歌词“見ればさぶしも”来看,他在所佇之地是在宣告悲恋的终结,以此可推断逝者是为爱情苦脑之极而了结终身。
志贺津的女子可以理解为在志贺死去的吉备津的女子,但也可以理解为处于同样身世的其他女子。
作者:柿本人麻吕(かきのもとのひとまろ)
出典:《万叶集》卷二.218
原文:楽浪の志賀津の子らが罷り地の川瀬の道を見ればさぶしも
(ささなみのしがつのこらがまかりぢのかはせのみちをみればさぶしも)
金暁明 译
(一)
乐浪志贺津
宫女列行浅滩路
目睹过悲伤
(二)
我望志贺才人去
泪断西行涉石川
(三)
志贺津釆女,
呜咽过浅川。
凄凄西去路,
触目心伤寒。
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趙 晴 译
(一)
浅滩道凄凉
乐浪志贺津碧玉
伤魂流水长
(二)
浅滩道上多悲叹
宫女红泪落水深
(三)
悲歌若可闻,
浅滩叹香魂。
玉落心伤处,
红泪流水深。
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趙一可 译
(一)
昔有志贺佳人美
渡去川瀬辞宫闱
离路一望多寂悲
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劉 紅 译
(一)
乐浪志贺津
有女川边赴冥路
曲径诉凄楚
(二)
志贺有女赴冥路
川边小径诉凄楚
(三)
乐浪志贺津
有女赴冥路
川边小曲径
犹见显悲凉
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解釈
和歌の技法
枕詞(まくらことば)
五音句からなる。ある語句の直前に置いて、声調を整えたり、印象を強めたり、その語句に具体的なイメージを与えたりする表現技法。五音であることを除けば、その働きは序詞とほぼ同じ。序詞とともに、万葉以来の表現技法。
◇楽浪の 「志賀」の枕詞。「楽浪」は琵琶湖西南岸地方の古名。◇志賀津の子ら 志賀津の若い娘。長歌の題詞からすれば采女ということになる。志賀は今の大津市北部。津は港。
「ら」は親愛を示す接尾語。
◇罷り道 死出の道。◇川瀬の道 浅瀬を辿って川を渡る道。「志賀津の子」が入水自殺したことを暗示するか。◇そら数ふ 「大津」の枕詞。◇大津の子 前の歌の「志賀津の子」に同じ。◇おほに見しくは…
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大意
この川沿いの道は、采女(うねめ)の葬列が通った道だ。あまりにも若く、あまりにも突然の死だった。川沿いの道を見るだけで、胸がいっぱいになる。
亡くなった采女に生前逢ったときのことを思い出す。
こんなに突然に亡くなるとは予期せぬことだった。
それでも、あの時にもっと彼女のことを気にかければよかったと悔やまれてならない。
歌の中に「川瀬の道」とあるので、志賀津娘もまた入水して命を絶ったことが想像できます。
そんな志賀津娘があの世へと去って行った川瀬の道を、いままた吉備津采女も去ってゆくとの寂しさを詠っているとも取れますね。
入水自害した女性と言えば他にも猿沢の池の采女などが有名ですが、この吉備津采女や志賀津娘などのように、実らぬ恋に思い悩み自ら命を絶った女性がこの時代には少なからずいたようです。
梅山秀幸氏によると、采女とは「地方豪族が大和朝廷への服属の証しとして献上した人身御供」であり、折口信夫はそこに「巫女」としての宗教的な性格を見ていたという。天皇に采女を「たてまつる」=「まつる」ことが、すなわち、「まつらふ」(服属する)ことの証しとなる(それをしないのは「まつろはぬ」人びとや国ということになる)。
采女は「国々の魂」であり、したがって、「天皇だけがそれに触れることが許される」。言い換えれば、「采女は天皇以外の男性との交渉は禁じられていた」。
上の歌の采女はなぜ死なねばならなかったのか。
「采女の容疑ははっきりしている。夫を持ったこと、罪状は大不敬である」と梅山氏はいう。
この采女は、捕らえにきた衛府の役人の手を逃れて自殺したか、あるいは「逮捕されたとすれば、当然刑死したという可能性も考えなくてはならないことになる」。
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参考文献
1.《万葉の秀歌》中西進著 2012年7月10日筑摩书房发行
2.《写真でみる万葉集》 一九六〇年朝日新聞社
3.《万葉花譜》田中真知郞著(有)光書房
4、《日本文学研究資料万葉集》有精堂出版株式会社
5、《万葉秀歌探訪》
6、《日本人の心の言葉.大伴家持》铁野昌弘著
7、《初期万葉》阪下圭八著
8、《万葉歌を読む》佐佐木幸系岡著.岩波書店
9、《万葉を解読》佐佐木隆.日本放送出版協会
10、《日本語大辞典》講談社第二版
11、《わたし万葉歌碑》犬養孝