『蘊承軒•国際文化芸術窓口』連載之六十 原京都國立博物館・学芸部・部長西上実先生−−
周日於家中執筆記事,写写一直萦绕头脑中那認真的影像:西上実先生(原京都國立博物館・学芸部・部長),一丝不苟的认真朴实无华和少言寡语是我对他第一综合印象的概括,谈到他研究的专业,向他请教,他会话稍稍多起来,讲得也主动起来……
记得一次听他讲演,我对他说,讲演后讲演稿可否送给我学习?他马上就说可以,并讲演一结束就叫我过去,把他标注了说明的宝贵讲演稿给了我…我很为之感动!
这篇我不讲西上先生在研讨会上说日本的须磨与齐白石,而是为大家介绍一下他的一次讲义及一展览的引文吧!
西上先生是李庚先生特別介绍我認識的美術史學者,記得那天在造形藝術大学西上先生的特別講義结束后,一同去附近的印度料理店用工作餐。西上先生手提着一个工作包,有些旧了,里面很多资料。我问他一直出门都带着么多吗?他说,上班一直这样,习惯了……這天西上先生講義是《關於丁雲鵬•盛茂燁合筆五百羅漢圖》。我很感兴趣的课题,借他的講義翻閱:
西上先生講演
於安徽休寧出身丁雲鵬(字南羽、号聖華居士、1547~1628),以蘇州為起点发展到江南的諸都市为活動基地,制作了很多仏像画,以是明末的仏画師的代表而闻名。而丁雲鵬又是蘇州出身山水画家,與盛茂燁合作的於万暦二十二年(1594)完成的二十四幅一套的「五百羅漢圖」,分散在日本各地被傳承着。
每幅都為本紙着色(高約210cm、寬約103cm)。畫面山水中約二十一尊羅漢集聚而來。羅漢及各種動物及器物為丁雲鵬所畫,年紀尚輕的盛茂燁畫的背景。京都国立博物館所藏的這一幅有這樣的落款:「阿羅漢五百尊者全像 甲午春仏弟子丁雲鵬敬絵"仏弟子""南羽"(兩款都是朱文方印)、盛茂燁写圖"盛茂燁印"(白文方印)」。並捺有清朝中期的收藏家畢瀧的鑑蔵印"畢瀧之印"(白文方印)、"澗飛"(朱文方印)印痕。並且其他畫幅中也捺有丁雲鵬、盛茂燁、畢瀧的上記印章。
在那個制作時期,正是明末傑僧達観真可(号紫栢、1543~1603)主編的大蔵経『嘉與蔵』(別称『径山蔵』)書冊出版的初期,当時丁雲鵬是受真可等所托,繪製了經的扉絵原圖、及祖師圖、羅漢圖等大量仏画,為傳播佛教活動貢獻很大。他還與出版家為『嘉與蔵』的出版貢献巨大的丹陽居士賀学仁(?〜1623字知忍)關係甚好。
西上先生從丁雲鵬和達觀真可、賀学仁等的関係為着眼点来探究「五百羅漢図」的製作背景…講義中還將關於詹景鳳(1528~1602)『東圖玄覧編』衣褶的十種畫法分類和周履靖的十八描法「天形道貌」一卷、万暦二十五(1597)刊發的進行對照,對晩明的衣褶表現進行說明。
西上実先生說9月初在大阪有個須磨收藏交流座談會,如有興趣一定來聽聽,於是我特別去採訪。當日出席者是以須磨和斉白石為中心進行講述的,日後我又翻閱相關資料,對中国近現代巨匠與須磨、京都国立博物館及西上先生的関係有了鮮明的了解……
已經是結束了很久的展覽了,平成24年始時京都国立博物館特別展「中国近代絵画與日本」,当時任学芸部長的西上先生写了這樣的展覧会主旨,很明了的闡述了中國近現代和日本:
『捐贈給京都國立博物館的須磨先生收藏的中国近現代以呉昌碩、斉白石、高剣父、徐悲鴻、劉海粟、黃賓虹等為中心的絵画作品,和国内外名品集中做展示,來追溯那多彩的展現。
鴉片戦争開始,西洋近代物質文明的衝擊,動搖了中國封建社會,促進変革步伐。而這時作為中國最近的榜樣的,就是鄰國日本。
近代画壇為首提倡改革的陳師曾、高劍父也都遊學過日本,這對於他們画論及画風的形成有極大的影響。有些人可能不知道吧,徐悲鴻留學法國之前學畫初期曾經來日本留學。與高劍父和他的弟弟高奇峰被列為嶺南三傑而聞名的広東出身的陳樹人就在京都市立美術工芸学校正規的學習日本画。值得一提的是高氏兄弟也同樣,3人既保持着傳統,又在創造新的造形美上借鑒了日本的近代絵画。
近代国画之巨匠斉白石初入北京曾受陳師曾指教,陳師曾把齊白石的作品拿到東京展覽,因而齊白石開始聞名于世。再有聞名於上海的篆刻家•文人画家的中心人物呉昌碩,與日下部鳴鶴、長尾雨山等日本的文人墨客又相交甚深,他的金石画風在鑑賞界極受推崇。』
西上先生以日本研究者的視点來看中國近現代巨匠的藝術,並且在由日中国絵画來探究傳統上讓我很受啟發。西上先生家住古都奈良,我每年去奈良的次数还真多,愉快的相約一定去古都奈良西上実先生家拜訪。
这样馳筆間,不覺中便很期待去我去惯了的奈良古都,探奇西上先生的书斋,並拜读他的《由丁云鹏的衣褶表现看唐宋回歸》,一窥从他的视点是如何看中国绘画的……
【日本語】以前からここで一人の美術史研究家をご紹介したいと考えていました。その方は元京都国立博物館の学芸部部長である西上 実先生です。
初めてお会いしたのは昨年の初夏で、西上先生は造形大の特別講義を終えたばかりでした。学問に大変真摯なお方、との第一印象でした。この日の西上先生の講義内容は『丁雲鵬•盛茂燁合筆五百羅漢図について』でした。私も大変興味のある講義内容だったので拝読させて頂きました。以下の文章は西上先生がまとめられたものです。
『安徽休寧出身の丁雲鵬(字は南羽、号は聖華居士、一五四七~一六二八)は、蘇州をはじめとする江南の諸都市を活動拠点に、多数の仏画を制作し、明末を代表する仏画師として知られる。その丁雲鵬が、蘇州出身の山水画家、盛茂燁と合作で万暦二十二年(一五九四)に完成させた二十四幅一具の「五百羅漢図」が、日本各地に分散して伝わっている。 各幅、本紙は縦約210センチ、横約103センチの紙本着色。山水中に集う二十一尊前後の羅漢が描かれている。羅漢及び各種の動物や器物を丁雲鵬が描き、若年の盛茂燁が補景したようである。京都国立博物館所蔵の一幅には、「阿羅漢五百尊者全像 甲午春仏弟子丁雲鵬敬絵"仏弟子""南羽"(共に朱文方印)、盛茂燁写図"盛茂燁印"(白文方印)」の落款があり、清朝中期の収蔵家、畢瀧の鑑蔵印"畢瀧之印"(白文方印)、"澗飛"(朱文方印)が捺されている。また他幅にも、丁雲鵬、盛茂燁、畢瀧の上記印章が捺されている。
その制作時期は、明末の傑僧、達観真可(号は紫栢、一五四三〜一六0三)が主導して始まった方冊本の大蔵経『嘉與蔵』(別称『径山蔵』)出発の初期にあたり、当時丁雲鵬は真可等の依頼により、経の扉絵の原図、及び祖師図、羅漢図等の仏画を多数制作し、その布教活動に献身的に協力していた。また出版事業家として『嘉與蔵』の出版に貢献した丹陽の居士賀学仁(?〜一六二三頃、字は知忍、号は虚谷)とも親密な関係を持った。』
西上先生は丁雲鵬と達觀真可、賀学仁との関係に注目し、「五百羅漢図」制作の背景を探りました。更にその中でも詹景鳳(1528~1602)『東図玄覧編』の衣褶分類の十種類描法と十ハ描法の周履靖「天形道貌」一卷、万暦二十五(1597)刊を比べて、晩明の衣褶表現を説明されていました。
西上先生は私に、秋に大阪で講演をするので興味があるのなら是非いらっしゃい、とお声を掛けて下さいました。お蔭様で私は大阪蝸廬美術館の特別企画展『須磨藏寶・宋元餘韻』での西上先生の講演を拝聴することができました。
その日会場で講演された方々は、主に美術愛好家として中国一流の画家と関わりの深かった須磨弥吉郎と、現代中国近代画の巨匠・斉白石を中心に語りました。後日私は講演会で知った情報を元にして色々と調べてみました。すると須磨弥吉郎と斉白石、更に京都国立博物館と西上先生との深い関係を改めて知ることができました。
平成24年に京都国立博物館で開催された特別展『中国近代絵画と日本』の中で、当時学芸部長だった西上先生が展覧会の宗旨を次のように紹介されていました。
『中国の近現代を中心に活躍した呉昌碩、斉白石、高剣父、徐悲鴻、劉海粟、黃賓虹等の絵画作品を、京都国立博物館が近年受贈した須磨コレクションを中心に、国内外の名品を集めて展示し、その多彩な展開を追います。アヘン戦争に始まる西洋の近代物質文明の衝撃は、旧態依然とした中国の社会全体を揺さぶり、変革を促しまた。そうした中国が近代の身近な手本としたのが、隣国の日本でした。
近代画壇において改革のリーダーとなった陳師曾、高劍父は、いずれも日本に遊学しており、その画論、画風の形成にあたって日本の影響を無視することができません。あまり知られていませんが、フランスで洋画の技法を学んだ徐悲鴻も実は学画の初期に日本に遊学しています。高劍父、その弟の高奇峰とともに嶺南三傑として知られる広東出身の陳樹人は京都市立美術工芸学校入学し、日本画を本格的に学んでいます。高兄弟もそうですが、3人が伝統を保持しつつ、新たな造形美を創造する上で、日本の近代絵画を大いに参考にしている点は注目に値します。近代国画の巨匠斉白石は北京に出て陳師曾の指導を受けますが、師曾はその作品を東京の展覧会に持ち運んで、出陳したことがきっかけで、世界的名声を得るようになります。
一方、上海における篆刻家•文人画家の中心人物として知られる呉昌碩は、日下部鳴鶴、長尾雨山等日本の文人墨客と親交を持ち、その金石画風は鑑賞界で大いにもてはやされます。』
西上先生は日本の研究者としての視点から、中国近現代の巨匠の芸術、また在日中国絵画の伝統、そして日中の芸術文化の交流について解りやすく解説して下さいました。またいつか古都・奈良にある西上先生のご自宅にお伺いして、書斎を見学させて頂き、先生の執筆された『丁雲鵬の衣褶表現にみる唐宋回帰』を拝読したいと願っております。 執筆者:李留雁